沿革・由緒

【当店の紹介と沿革】

この度は 古民家カフェ&農家民宿『里山のカフェ ににぎ』のホームページをご覧いただき誠にありがとうございます。

当店は 秋田県 男鹿半島の伝統行事『なまはげ』や 神の魚『鰰(ハタハタ)』漁で知られる “男鹿半島”の北浦真山(しんざん)地区、海とお山を繋ぐ中間地点に佇んでおります。地名や古跡、人々の暮らしと共に古い信仰の名残が今でも随所に感じられる田んぼの中の一軒家です。古い民家を活用した住宅兼店舗は、建物の一部を改装し 現在はカフェ・民宿・お座敷ギャラリーを営んでいます。

店名の由来は、地元『真山神社(旧赤神神社)』に祀られている『ニニギノミコト』という神様にあやかっており、その名前の意味は “ 稲穂が豊かに ニギニギしく(にぎやかに)実る 農業の神様” だと言われております。

画像や動画だけでは中々伝わり難いのですが、周辺の景色は季節や天候により移り変わり、里山の四季折々の景観を五感で楽しむ事が出来ます。海と山を繋ぐ道の中間地点であるこの地はお山(真山/しんざん)の入口になっており、神社やお山に至るまで修験文化の名残や地名も興味深く、当店周辺の地名である “塞の神(さいのかみ)” は、村境や山への厄災の侵入を塞ぐという意味の神様だといわれています。

毎年大晦日には男鹿半島の伝統行事として知られる 地元 真山集落の『なまはげ』が我が家(当店)にも訪れます。近く(車で約3~5分程)には 毎年冬に観光行事『なまはげ柴灯祭り』が行われる事で知られる『真山神社(旧赤神神社)』を始め、大晦日の真山集落のなまはげ行事が再現される『真山伝承館』、男鹿半島の歴史や文化、風土が紹介されている『なまはげ館』等 がございます。この他にも多くの観光スポットやディープスポットが点在する男鹿半島ですが、旅の休憩スポットやお宿として楽しくゆったりとしたひと時をお過ごし下さい。

地元にお住まいの方達をはじめ 帰郷や移住されてきた方達、そして観光でお立寄りいただいた皆様が 暮らしや文化を通し、繋がりあえる地域コミュニティーの場となれたら幸いです。ご来店の際はお店の事、地元の事など気になる点があればお気軽にお声掛け下さい。当店の由緒については別途下記にて記載いたしております。

皆様のご来店を心よりお待ちしております。

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【当店の由緒】

地元の言い伝えや記録(写真や固定資産税課税明細書)によれば、当店は現店主の曾祖父(※③ 猿田茂助/さるた もすけ/昭和32年 逝去76才)により昭和27(1952)年に住宅として建築されております。

竣工後(昭和三十年頃)まもなく、当時もまだ“お殿様”と慕われていた旧秋田藩 佐竹宗家14代当主の“※① 佐竹義栄(さたけ よしなが)”氏とその親戚に当る旧肥前鹿島藩鍋島家の方(15代当主“※② 鍋島直紹〔なべしまなおつぐ〕”氏)が、ここ真山にお越しの際に泊まったといわれております。(※ 画像は真山郷中の人達と家屋が竣工された当時に玄関前で撮影された写真です。一列目中央が③猿田茂助夫婦、右の眼鏡に黒〔?〕のスーツの方が①佐竹氏、更に右側の眼鏡にダブルのスーツの方が②鍋島氏との事。)

これは 真山神社(当時の旧赤神神社と別当光飯寺)が佐竹藩ゆかりの祈願所として指定され 数々の寄進崇敬を受けていた事や藩政時代まで真山村の人達が寺社や周辺の山林管理を行っていた事、明治維新(神仏分離令)から戦後までの間にかけて寺社や周辺の土地・山林を巡って混乱があった事も関係していたとされています。また曾祖父(茂助)は信仰が厚く、神社とはとても深く関わっていたそうです。( ※ 詳細は下記の人物略歴をご参照下さい。)

かつて、店主の曾祖父である猿田茂助は神社役員の中核となり、特に敬神の念が厚く多大な貢献をした事でその功績が認められ、昭和28年に秋田県神社庁に表彰されました。亡くなってから数年後(昭和54年 7月15日 真山神社 例大祭 宵祭の日)にはかつて神社や地元の基礎財産を守った証として有志により神社境内に胸像と顕彰碑がおかれました。当店家屋の建築資材に使われている良質な木材は国との裁判の後、その使用を認められた山林のものと伝えられています。

また、明治時代以降 当猿田家が分家し、神社近辺から山を降りて現在の地に住まいを移し、真山入口「塞の神下」に家屋が建てらている事は、厄除け(猿田=申/さる)として北東(鬼門/丑・寅の方角)に玄関が向けられている事や、地名として“塞の神(さいのかみ)”が山の入口・集落の境目・道の辻 等に名付けられている事、更には青面金剛(庚申信仰/三猿/道教)や耳にご利益があるとされているお地蔵様(耳どっこ/仏教)等と共に近辺の道祖神と習合されているその共通点を考えれば、これまで曽祖父達ご先祖様達が山林や神社、集落を守る意識とその信仰の厚さを伺わせます。(尚、真山・北浦・相川 各3集落の境目にある お地蔵様『耳どっこ』には『塞神三柱神』のお札が置かれておりますが、このお地蔵様をかつて『キノミヤ』と呼ぶのが正しい と記録があるのは とても興味深く、その信仰とルーツや男鹿半島との繋がりを紐解く為、後に店主は静岡県 熱海市の來宮神社や伊豆山神社まで足を運んでいます。)

その後、当家屋は親戚の管理なども経て 店主の祖父(佐吉)>父(實)>母(千代子)>へと引継がれてきました。屋号は『さんぺのえ(家)?』と言われてきたそうですが、残念ながら我が家にも地元の人にもその意味を知る人はいません。

現在は初代の曽祖父から数えて4代目の猿田 真が『里山のカフェ ににぎ』を開業し、カフェ・民宿・お座敷ギャラリー 等を営んでいます。

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【由緒に登場する人物の紹介・略歴】

〔① 佐竹 義栄 (さたけ よしなが)〕

生没年 大正3(1914)年~昭和58(1983)年

旧秋田藩佐竹宗家の十四代当主で侯爵・佐竹義春の長男。昭和13年東北大法科を卒業し、厚生省保険院、企画院第三部、技術院研究院、労働省労働統計調査部などに勤務。大学を卒業した昭和13年に襲爵し、昭和19年から23年まで貴族院議員。その後は徳川黎明会(※)監事、日英協会会長、日本国際連合協会児本部顧問などを勤める。没後、氏達の遺志により千秋公園(久保田城の本丸・二の丸跡地)用地が秋田市へ寄贈される。妻(百合子)は徳川義親(松平春嶽の五男)の三女。

(※ 徳川黎明会 とくがわれいめいかい/1931年(昭和6年)尾張徳川家第19代当主の徳川義親によって設立され、徳川美術館と徳川林政史研究所の管理・運営を行なっているほか、美術や林業に関する研究、一般への講座の開催や本の編纂などを行なっている。)

〔② 鍋島 直紹(なべしま なおつぐ)〕

生没年 明治45(1912)年~昭和56(1981)年
日本の政治家。佐賀県知事・科学技術庁長官。旧肥前鹿島藩主・鍋島家の第15代当主。妻(則子)は佐竹義春(義栄の父)の長女。

〔③ 猿田 茂助(さるた もすけ)〕

明治16年10月25日真山村 宇吉(うきち)長男として生る。幼少より記憶力抜群大衆のため労を惜しまず、若くして部落区長に推され昭和15年3月まで永年にわたり地方自治に貢献する。特に敬神の念厚く永年の間真山神社役員の中核となり神社基本財産の確保に献身的な努力をする。また北浦町農業協同組合長として3期つとめその間 耕地整理事業に着手する。県経済連理事を任命さる。更に北浦町議会議員40年就任、その間北浦町教育委員として活躍する。昭和32年3月16日逝去 享年76歳。(昭和54年7月15日 真山神社境内 猿田茂助翁胸像 並 顕彰碑 太田忠太氏 記念碑 除幕式しおり より参照)

生前は真山神社で行われている伝統行事、1月3日の『柴灯祭り』で法螺貝を吹く為、馬雪車に乗って神社に向う姿が真山集落の人達(幼少の頃)によって目撃されており、とても信仰の厚い人物だったと伝えられています。真山神社の境内(境内入口の左側)には現在も生前の功績が讃えられ、その記念として胸像と顕彰碑が置かれています。尚、真山の猿田家のルーツ等については、磯村朝次郎 著 日本海域文化研究所より編集・発行された『男鹿半島史Ⅲ 北浦史(秋田文化出版 株式会社より発売)』でも少し触れられています。

上記の人物①・②を紐解くと尾張徳川家、佐賀鍋島家、秋田佐竹家は戊辰戦争で新政府方に属していた共通点があり、佐竹義栄氏は徳川黎明会の監事を勤めていた事から、藩政時代 佐竹氏の領地であった寺社・山林の事柄にも関わっていたものと推され、おそらく国との裁判の際にも多くの方達のご助力があったと思われます。今日まで土地や建物は残ってはおりますが、曽祖父は国との裁判などで費用が嵩んだ事も伺え、当時の心身的苦労が語られた肉声テープを聞く限りでは 晩年まで決して楽な暮らしが出来無かったであろうと考えられます。

尚、これらは店主が様々な資料より抜粋し、編集したものですが、中には地元の方による言い伝え等も含まれます。今後新しい資料や情報提供に基づいて少しずつ改善させていただく場合もございますので何卒ご理解とご協力下さいますようお願い申し上げます。

〔最終更新日:2024年 2月15日〕

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【店主の履歴/プロフィール】

猿田 真(さるた まこと) 昭和50(1975)年 8月生まれ。

・秋田県男鹿市出身。

・幼少期を男鹿半島北部(主に北浦地区・男鹿温泉郷 周辺)で過ごす。

・男鹿市立 鹿山(ろくざん)小学校、男鹿北中学校(第1期生/学校は2022年春に閉校)、秋田県立 秋田西高等学校(第13期生)卒業。

・高校卒業後は上京し千代田工科芸術専門学校を卒業。その後関東での就労を経て2004年秋田に帰省し、地元の介護施設や不動産会社に事務員として勤務。2011年に東日本大震災などを転機として退社。

・平成24(2012)年の春 自宅である古民家を活用し『里山のカフェ ににぎ』をオープン。

・平成29(2017)年には簡易宿所(農家民宿)としての営業も開始。

・令和5年(2023)6月〜 『特定非営利活動法人秋田花まるっグリーン・ツーリズム推進協議会』副理事長を経て理事長に就任。

現在に至る。

初代 曽祖父から数えて4代目。現在共に活動して下さる仲間やパートナーを募集中。

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〔これまでの活動〕

カフェの営業と平行しながら店内スペースや地元の施設を会場とした様々なイベントを企画し、古い伝統文化と音楽が融合するお寺を会場としたイベント『寺NOVA(テラノヴァ)』(2014~)等を主催。文化庁・秋田公立美術大学 主催のローカルメディアと恊働するアートマネージメント育成事業、『AKIBI plus 』にて「芸術価値創造拠点2/男鹿」では“男鹿半島空家ツアー(2015年)”や“ショートレジデンスプログラム「神々と生きる島を探る in 男鹿」準備講座(2016年)”にてフィールドワークやシンポジウムを企画、地域コーディネーターとして関わる。人口減少に伴い増加する男鹿半島の空き家(物件)と芸術や工芸を繋ぐ活動に取り組むも、民宿営業の開始に伴い、本業や家事に専念。

自らも関わる 地元の伝統行事 “大晦日のなまはげ行事” や “柴灯祭り” をはじめ 古くから伝わる伝統文化(衣・食・住・楽)の継承とこれから新しい文化の融合について考察&活動中だが、人手不足や後継者不足に苦戦中。地域の文化をリスペクトし、一緒に活動してくれる方を随時募集中。出来る事からコツコツと。将来は地域の伝統文化を継承しながら充実した里山生活を夢見て暮らしている。

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〔趣味と性格〕

音楽・バスケ・山仕事・野良仕事・工芸&民藝品・温泉・日本酒(秋田の)・
民俗学や文化人類学にまつわる 旅とフィールドワーク&考察

中学生の頃に部活動の先生から借りたカセットテープ(久保田利伸さんのラジオ番組録音)をきっかけに嫌いだったはずの音楽に興味を持つ。高校生の時にバスケットボール部だった事がきっかけとなり NBAのチーム、シアトルスーパーソニックス(現在のオクラホマシティ サンダー)のファンになる。同時期 JAZZやR&B等の音楽にも興味を持つ。20代の頃に友人と共に影響を受けたDJカルチャーや国境を超えて多くの人に影響を与えるダンスミュージックのムーブメントに衝撃を受け、その後もカフェミュージックやワールドミュージック等、境界を超えた多ジャンルの音楽を聴くようになる(店内にも大好きな音楽のレコードを飾っています)。
その他 秋田のお酒や温泉、全国の工芸や民藝、そして山仕事・野良仕事が好き。

近年は自分の住む地名(塞の神下)や、自らの名前(猿田)のルーツが気になり出し、以降 文化人類学や民俗学などにも興味を持つが、特に猿田彦(サルタヒコ)という神話に登場する神様について考察したり、各地の古跡巡りを定期的に行っている。今日ではその体験談をお客さんに話したり、情報交換を行ったり、時にはその話を聞く為 わざわざお客さんが訪れる事も。猿田彦巡りは店主のライフワークや旅のきっかけとなっている。自称 “ 猿田彦愛好家 の なまはげ ”。

真面目の様に思われる一方、実はふざけるのが大好き。何事も負けず嫌いな一方で勝ちたいとも思わない人で 楽しむ派。好奇心が旺盛で一度ハマると一途なタイプ。ノリがいい人には人懐っこい。オフの時はゆるいです。健康第一。心と食のバランスを取る事には出来るだけ気をつけている。比較的現実主義。

ひいおじいちゃんのテープに残されていた言葉に影響を受け、困った時や悩んだ時は『果てな?』と自問自答や周りに相談する事にしている。

〔最終更新日:2024年 2月15日〕